引きこもり住職のアバター説法随聞記 Vol.1

 

 

引きこもり住職のアバター説法随聞記 Vol.1

孤雲懐奘(こうんえじょう)は、師僧である道元禅師(曹洞宗の宗祖)の隋聞記(正法眼蔵随聞記)を著し、昭和天皇より「国師」号の宣下を受けました。この故事に習い私(沼⽥榮昭)も、「引きこもり住職」こと杉浦英雄の隋聞記を著し、令和の国師号を狙いたいと考えました。

 

道元禅師は⾔わずと知れた曹洞宗の祖、釈迦仏教を継承している⾃負の下、ご⾃⾝では「禅宗」とか、ましてや「曹洞宗」という⾔い⽅はされませんでした。英雄住職の間接の祖師・明恵上⼈もまた、お釈迦様への思慕の強い⽅でした。

 

この時代(鎌倉時代:現在の前の「⾵の時代」)は⽇本特有の鎌倉仏教が花開く⼀⽅で、根底には末法時代ゆえのお釈迦様思慕の思潮が流れておりました。

 

明恵上⼈は各宗派を横断して学びましたが、道元禅師は他宗に惑わされずお釈迦様直伝と考えた只管打坐を貫ぬきました。

 

鎌倉仏教の祖師らは、直接的な意味では「師」を持たず、それぞれ特有の仏教を創造しました。簡潔ながらも奥深い、⽇本型の⼤乗顕教が続々と⽣まれたのが、この鎌倉という⾵の時代です。

 

【究極のNO.2】

孤雲懐奘は天台宗の学僧でしたが、「教学だけでは世の中は救えない、現世を⽣きる僧侶となりなさい」と⺟に諭され下⼭、おそらくは⺟の影響で⼀時、浄⼟宗を学びます。

 

ただ浄⼟宗には飽き⾜らず、⽇本達磨宗という禅宗の⼀派に学び印可(悟りの証明)を受けました。

 

その後、宋から帰国した道元禅師の評判を聞きつけて法戦を挑みます。この法戦はなんと数⽇に及びます。誠に興味深い法戦です。

 

そして孤雲懐奘はついに、⾃分より道元禅師の所⾒が優れていると認めます。そして2歳年下の道元禅師に弟⼦⼊りし、究極のNO.2として永平寺(曹洞宗の本⼭)の発展に尽くします。

 

道元禅師の仏教は、孤雲懐奘との共作と私は⾒ております。両者は貴族の出、鎌倉の乱世を⽣きる中、⼿を取り合って理想の仏教を求めました。

 

中国の最先端を知る道元禅師、宗派横断で市井を⾒つめ尽くした孤雲懐奘、⼆⼈のキャッチボールはさぞ刺激的だったに違いありません。孤雲懐奘は、道元禅師を半ば創作しました。

 

この⾃らが創作した道元禅師に、孤雲懐奘は⾃⾝の過去や思想を切断し、純化した仏法を語らせました。孤雲懐奘の描く「道元禅師」は本物だ、いつしか道元禅師はそんな思いを抱いたのでしょう。

 

創作と実物は、孤雲懐奘の掌で何度もクロスオーバーを繰り返します。このクロスオーバーを通して、孤雲懐奘は仏法の⾼さを知り、道元禅師は⾃⼰の深さを知るのです。

 

道元禅師は、孤雲懐奘の弟⼦⼊りの申し⼊れを、⼀度は断ります。ただ孤雲懐奘から離れると、座禅は平凡な所作に変わりってしまいます。「孤雲懐奘のいない只管打坐なんて・・・」と呟いたに違いありません。孤雲懐奘も⾃分の物語では、当時流⾏の、なおかつ⺟が愛した浄⼟教を乗り越えられません。

 

とはいえ異宗派の⼆⼈が、あの法戦を続ける決意を固めるには、さらに6年の⽉⽇が必要でした。

 

1234年ついに孤雲懐奘の弟⼦⼊りが認められます。これを契機に孤雲懐奘が属した⽇本達磨宗は、道元禅師の傘下へと合流します。これが⽐叡⼭を刺激して道元教団への迫害を招きます。ただここから道元禅師の仏法は、ますます深みを加速します。

 

【道元と浄⼟宗】

道元禅師は浄⼟教を語りません。浄⼟教の称名念仏は当時の⾼野⼭をも席巻し、⼤流⾏をみせておりました。語らないのはむしろ不⾃然なくらいです。

 

強いて⾔えば浄⼟教が前提とする末法(釈迦の死後時間が経過し、悟りや正しい修⾏が廃れた世の中)思想について、「これは⽅便に過ぎない(仏教の本質ではなく⼿段にすぎない)」とコメントしております。この末法の考え⽅ゆえ、当時の⼈々は、お釈迦様との時間・空間の差を意識したようです。実は私も、末法の考え⽅がピンと来ません。真⾔密教の世界とは、真逆とも⾔える考え⽅なのかもしれません。

 

・「引きこもり住職」こと杉浦英雄住職(紫雲⼭寶瑞院)によると、「浄⼟教と浄⼟宗は違う」ようです。英雄住職によれば、⾼野⼭を席巻したのは浄⼟教で、真⾔宗の教えに多少の影響はあったにしても、基本は本来の修⾏法に、称名念仏が付け加えられた、という解釈です。

 

中国では当然のごとく禅宗と浄⼟教が同じ寺院で現在も説かれております。道元禅師も中国では、そうした⾵景を⾒ていたと思います。

 

「浄⼟宗」を最初に名乗るのは法然上⼈ですが、その法然上⼈ですら「最後は天台宗の僧⾐で遷化された」と英雄住職はいいます。浄⼟宗が⼀般的な⽤法での「宗」となるのは、徳川幕府の尊崇を受けた江⼾時代の頃とも⾔われます。

 

【⼼の師とはなれ】

「⼼の師とはなれ、⼼を師とせざれ」は茶の湯の祖・村⽥珠光の⾔葉です。涅槃経には「⼼の師とはなるとも⼼を師とせざれ」とあり、「⼼をコントロールせよ、⼼にコントロールされてはいけない」という意味なのでしょう。

 

村⽥の「⼼の師とはなれ」を敢えて「⼼の師と離れ」と読み、「⾃分の⼼をコントロールする気持ちから離れて」と解釈してみると、別の世界が⾒えてきます。

 

⼼をコントロールするプラスの世界、⼼すらもコントロールできないマイナスの世界、仏教には2つの世界が併存しております。引きこもりの英雄住職はこれまで、マイナスの世界を中⼼に⽣きて来ました。鎌倉仏教はマイナスの教えが中⼼です。

 

狭き⾨でしかなかった前の時代の密教に対抗し、簡潔な教義と実践法を備えた新しい顕教が登場します。その中でも⾃らを「煩悩具⾜の凡夫、罪悪⽣死の衆⽣」の⼀⼈と位置づける法然上⼈は、死をもってようやく救われるという徹底したマイナスの世界を描きました。プラスの世界の欺瞞に絶望した結果が専修念仏でした。

 

マイナスの世界は、実は誰もが経験している世界です。究極のマイナスの世界である「死」が絶対である以上、逃れることはできません。これは宗教やスピリチュアルの熟練者が、時折忘れてしまう世界でもあるのです。

 

プラスの世界は現世志向、深遠な宗教体験の傍ら、現実世界にも積極的に関わります。仏教でいえば、弘法⼤師・真⾔密教に代表される世界です。寶瑞院のもう⼀⼈の祖でもある明恵上⼈も、鎌倉時代の⽅ではありますが、プラスの世界を中⼼に⽣きた僧侶と⾔えましょう。

 

私も、株式公開や中国ビジネスといった、プラスの世界を中⼼に、真⾔密教とともにこれまでは駆け抜けてきました。

 

浄⼟教から浄⼟宗へ、これは⽇々常時マイナスを⾃覚せよ、という法然上⼈の叫びと思います。政治・経済をドラスティックに動かし、ときに即⾝成仏の世界をも駆け抜けながらも⽇々常時「南無阿弥陀仏」、プラスとマイナスがシームレスに常時接続する、これが紫雲⼭寶瑞院の⽬指す仏教です。

 

⼤変僭越な話ですが、私は孤雲懐奘となり、英雄住職の「南無阿弥陀仏」を、道元禅師の⾼みへと押し上げて⾏きたいと考えております。

 

◎本レポートはリアル曼荼羅プロジェクト・メルマガ26【2022年3⽉18⽇:⼄⼥座満⽉】、の文章を大原浩の責任で抜粋・編集したものです。

 

★沼⽥ 榮昭(リアル曼荼羅プロジェクト主宰)

 

楽天・サイバーエージェントなど有⼒企業の上場を ⼿掛け、⼤和証券株式会社公開引受部勤務時代から 通算して、70社強の株式公開を実現、「伝説の株式 公開請負⼈(⽇経新聞記事より)」と⾔われる。上場会社⽣涯100社構想に向けて、スタートアップ企 業の発掘・育成・投資に現在も邁進。

 

2000年〜2021 年まで21年間、サイバーエージェントの社外役員を 務める。⽇本証券アナリスト協会検定会員(証券アナリスト)。

 

⾼野⼭真⾔宗⼤⽇寺(代々⽊⼋幡)で得度、紫雲⼭宝瑞院(仏教寺院)副住職(就任予定)、復旦⼤学(中国・上海)⽇本研究センター客員研究員、⼤阪⾳楽⼤学客員教授、中華⼈⺠共和国主治中医師(内科)。真⾔密教、統合占星術・星平会海、量⼦⼒学波動デバイスTime Waver等を取り⼊れた「株式公開レベル」の経営⽀援を実施。

 

★ファイブアイズ・ネットワークス株式会社

 〒150-0044 東京都渋⾕区円⼭町5-4

 フィールA渋⾕1402号 isao.numata@5is.co.jp

 

 

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