研究論文:「国富論」と「道徳感情論」に還る【経済学ルネサンス】<第2回>(全3回)

研究論文:

「国富論」と「道徳感情論」に還る【経済学ルネサンス】<第2回>(全3回)

 

<【現実】を相手にした「経済学」の本格的始動>

物理学と呼ぶべきものがギリシャ時代・ローマ時代に無かったわけではない。しかし、現代物理学の基礎を構築しその後の発展をもたらしたのがサー・アイザック・ニュートンであることに異論はないだろう。

同じく「進化論」の礎を築き、「進化」という全く新しい概念(今では当たり前のことのように思われているが、キリスト教的世界観が根強く支配していた当時は、簡単に言えば「エデンの園を追われた人類はどんどん退化しているのだから、元の完全な状態に戻らなければならない」というような世界観が支配していた)を生み出したのが、チャールズ・ロバート・ダーウィンである。

ダーウィンと同様に、それまで混沌としていた社会・経済を冷静かつ鋭い分析力で整理整頓し、体系化したのがアダム・スミスである(アダム・スミスのほうが先だが)。言ってみれば「経済学の父」ともいうべき偉大な人物であることに異論はないだろう(本業は道徳哲学の教授だから、まさに「一から独力ですべてを成し遂げた」わけである)。

アダム・スミスの「科学的手法」のベースは「豊富なデータ」と鋭い観察眼による「現地現物」という二つの要素に大きく依拠してる。

まず、「豊富なデータ」という部分においては、この本が出版されたのが日本で言えば江戸時代の前半であるということを考慮しなければならない。

国富論が出版されたのが1776年(1789年の第5版が生前の最後の改訂版)。享保の改革で有名な第8代将軍徳川吉宗が没したのが1751年。安永5年(1776年)には平賀源内がエレキテルを発明し、独立戦争に勝利したアメリカの独立宣言も行われている。

このような時代に本書に収録されているようなデータを集めるというのは、当時の欧州が文化的・経済的に高度な発展を遂げていたと言っても、並大抵の努力ではできないはずである。この豊富なデータの裏打ちによる分析が本書の説得力を高めているといえよう。

二つ目の「現地現物」は、トヨタ生産方式の根幹をなすものであるが、「例え社長や役員であっても、本社に閉じこもっていないで、工場の現場や販売店で【現実】を見てから判断を下す」ということである。本書でも、アダム・スミスの商売(ビジネス)、貿易どころか庶民の生活に至るまでの精通ぶりには驚かされる。象牙の塔に閉じこもらずに、庶民の中に飛び込んで色々と調べたのは事実のようであるし、そのおかげで本書でも【経済行動における人間の本質】が生き生きと描かれている。なお、当研究所の研究テーマである【社会や経済を人間の営みとしてとらえる「人間経済科学」】もこのアダム・スミスの視点を継承している。 

<【現実】を観察するべきである>

江戸時代中期には、欧州において素晴らしい経済に関する理論体系が完成していたのに、その後250年経っても、経済理論は進化するどころかむしろ退化している。

その原因は、マルクス経済学と(いわゆる)近代経済学にあると言えるだろう。

マルクス経済学がすでに破たんしていることは、だれの目にも(一部の共産主義狂信者は除く)あきらかであるので、ここではあえて論じない。

近代経済学の最大の過ちは数式で人間の営みを理解しようとしていることである。

例えば「国富論」には、数式・方程式の類は一切出てこない(念のため、アダム・スミスは多くの自然科学者と私的な食事会などを通じて密接に交流しており、数式や方程式に関して無知であったとは考えにくい)。また、現代のビジネスにおける賢人の代表である、ピーター・F・ドラッカー、マイケル・E・ポーター、ウォーレン・E・バフェットたちの著作や発言に数式・方程式が出てくることもまずない。

もちろん、経済の根幹を為すビジネスにおいて数式や方程式など全く必要が無いからである。それなのに、経済学で数式・方程式をぶんぶん振り回すのは馬鹿げた行為といえよう。

特にバフェットは「投資に必要なのは足し算、引き算、掛け算、割り算だけだ。もし、投資に高等数学が必要であれば私が成功することは無かっただろう」と述べている。投資家として成功しただけではなく、一代で米国を代表する企業帝国を築き上げた事業家でもある彼の言葉は重みがある。

また、経済は人間の営みであるという正しい認識を持てば、経済は「観察」によってしか理解できない、ということがはっきりわかる。

「動物学」の中でも、人間にもっとも近いサルの社会を理解するときに、数式や方程式を使うだろうか?彼らの社会を理解するには、まず観察。そして可能な範囲での実験を繰り返す(念のため、物理学と違って全く同じ条件での再現実験は難しい)。彼らの社会を一発で解き明かす数式や方程式など存在しないのである。

それなのに、サルよりもはるかに複雑で巨大な人間社会の営みである経済を、ニュートン力学や相対性理論のように一発で謎を解き明かす方程式などありえない。

ロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)は、ロバート・マートンとマイロン・ショールズというノーベル経済学賞・受賞者をはじめとしてそうそうたるメンバーをそろえていたが、1998年に破たんした。

それでも、なぜいまだに経済学者が数式・方程式を振り回すのか?それは「お経は意味が分からなくて長いほど有り難い」のと同じである。

まったく意味が分からないサンスクリット語のお経を聞かされても足がしびれるだけだが、なんとなくお経を詠んでいるのが「徳の高い僧侶」のような気がするものである。

同様に、一般の人間には良くわからない方程式を振りかざしていると、中身は無くてもなんとなく立派な学者に見えるというわけである。 

<モンゴル互助会と大学教員>

アダム・スミスは、もしかしたら自分の後の時代に正しい考え方が後退して、<中世のキリスト教が支配する暗黒時代>に似たような時代がやってくることを予見していたのかもしれない。

彼は、今の流行りで言えば大相撲のモンゴル互助会(裏には日本人の闇組織があるとのことだが、確かなことはわからない)のような、少数の人間が利権を求めて結束することについて、非常に憂慮していた。国富論において特に憂慮していたのは、「商工業者による結社」すなわち、現在で言えば業界団体である。

<利権を求めて結束する>というのは、人間の本能に近いもののようで、現在でも大相撲に限らずどこでもみられる光景である。

スミスは、自身が大学教授であるにも関わらず、象牙の塔の教員たちについても鋭い指摘をしている。

そもそも、ギリシャなどの古代文明において教員(家庭教師)は、自由市場で取引されていた。評判の良い家庭教師がいれば、その家庭教師を十分な給料で呼び寄せて学び、評判が良くない家庭教師には仕事が無かったわけである。 現在の日本の塾・家庭教師や予備校などはある程度それに近いシステムと言えるかもしれない。

ところが、大学なるものが生まれて様相が一変する。同じ内容を学んでも、大学の卒業証書があるかないかで、その社会的効果に大きな違いができた(スミスの時代にはすでに、卒業証書やどの大学を卒業したかで就職等に有利・不利があったようである)。

こうなると、教員は生徒に単位(卒業証書)を与えるか与えないかを決める絶大な権限を持ち、ユーザー(生徒や学費を出す親等)から学問の内容に関する適切な評価を受けなくなる。

その結果、教員の質が低下するとスミスは断言しているが、まさに現在その状態であると言える。つまり、大学教員互助会によって収入と身分が保証されているため大学教員は腐敗しているということである(もちろん大相撲に貴乃花がいるように、少数の良心派は当然存在すると思うが・・・)。 

<神の見えざる手>

この有名な言葉は、実は「国富論」の中には一言も書かれていない。スミスの別の著書「道徳感情論」に登場する言葉なのである。また、国富論の主要なテーマは「神の見えざる手」では無い。前述のような利権集団に後押しされた政府が無駄な規制を行うことは国富を損なうから、スミスが人間の自然な営みに任せた自律型経済を志向しているのは確かである。しかし完全自由放任主義でも無い。

例えば、国防に影響する部分において貿易の自由を制限することは「国民全体の利益」のために妥当であるとしている。いくら経済が繁栄しても、他国に侵略されては元も子も無いという現実的視点はきちんと持っているのである。

また、国家の経済への干渉がプラスの効果をもたらすケースは非常に少ないとしているが、「夜警」をはじめとする国家の一定の役割にはかなり肯定的である。

「神の見えざる手」という言葉だけが独り歩きしている現状は、一種の「印象操作」である。一つには、狂信的キリスト教徒が多数であった時代には、教会勢力などが「結局は神がこの世を支配している」という形に無理やり持っていきたかったのであろうと考えられる。

さらには、マルクス経済学者や近代経済学者が、国富論の都合の悪い部分を包み隠すために行っているプロパガンダだといえなくもない。

アダム・スミスが本当に言いたかったのは、「経済・社会は次に述べる『道徳感情論』における【共感】」システムによって自律的にコントロールされるから、余分な政策や規制など必要ない」ということである。

マルクス経済学を信奉する共産党の独裁政策や、「正しい政策は我々が考える」とする近代経済学においては、「国民の自律的行動に任せるのが最良の政策である」などという結論は最悪である。彼ら独裁者や権力者の存在意義がなくなるからである。

だから「見えざる手」に「神の」と付け加えることは、そこにあたかも彼らだけが見つけることができる「(神の)正解」があるように見せかけることが可能だという点で都合がよかったというわけである。

(第2回了、第3回に続く)

(文責:大原浩)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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