資本主義と自由

ミルトン・フリードマン日経BP社

 

<自由こそ資本主義の源流>

 

1962年にそれ以前の講義内容を基に出版された本ですが、60年近く昔の内容であるにも関わらず、現代我々が直面している諸問題に関して鋭く切り込み、かつ明確な解答を与えている名著です。

 

1776年に国富論の初版が発刊されてからほぼ250年、その輝きを失っていないのと同様、本書も風雪に耐えながら残っていく古典となるでしょう。また、アダム・スミスに関する言及もしばしば登場しますが、きちんと彼の主張を理解したうえでのコメントであり、本来の内容を捻じ曲げて伝えている自称<スミス派>の人々とは一線を画しています。

 

また、本書の内容そのものがアダム・スミスの正当な後継者であることを示しています。スミスは「見えざる手(決して『神の』ではありません!)」、すなわち国民が参加する市場の「自律的コントロール」を重視していました。フリードマンも筋金入りの「自由主義者」であり、市場あるいは民間の力最大限に活用するのが合理的であると主張しています。

 

ただし、「国家」がある分野において重要な役割を果たすことは二人とも認めています。まず第一は「国防」、その次に国内の「治安」があげられます。「国防」に関しては日本国内には奇妙な「憲法9条教」の信者がたくさんいますが、国内の同胞から自分の安全を守るのに警察が必要であると主張しているのに、国外の侵略的国家から自国を守るための軍隊が必要無いなどと主張するのはクレイジーな話です。

 

どのような社会にも犯罪者は一定割合(比率の多少の違いはあっても)で出現しますし、独裁者が支配する邪悪な国家は朝鮮半島だけではなく、世界中の多くの地域に観られます。

 

そのような「夜警」としての役割以外の国家の重要な役割には<カルテルの打破>があります。スミスは「商工業者が集まれば、それが趣味の会であっても結局<談合>になる」と何回も指摘していますが、「厳しい競争の中で互いに協力して戦う」というのは人間の本能

であり、美徳とも言えます。

 

しかしながら、国民から見れば「業者が結託して価格を吊り上げる」等の行為は、大いなる不利益です。したがって、国家がそれらの業者(アダム・スミスのいう商工業者)を監督し、互いの競争を促進しなければなりません。つまり「自由競争を担保するために政府の存在が必要」なのです。

 

ところが、自由競争を促進すべき政府が、商工業者の後押しをして輸入関税・輸入制限、補助金、参入制限、さらには自らが参入する「国営」などの手法によって自由競争を妨げています。

 

<政府が行うべきではない14の事業>

 

フリードマンは、第2章で政府が行うべきではない事業の14のリストをあげています。

  1. 農産物の買い取り保証価格制度
  2. 輸入関税・輸出制限
  3. 産出規制
  4. 家賃統制
  5. 最低賃金・法定金利
  6. 産業規制・銀行規制
  7. ラジオ・テレビ規制
  8. 社会保障制度(特に老齢・退職年金制度)
  9. 特定事業の・職業の免許制度
  10. 住宅政策
  11. 平時の徴兵制
  12. 国立公園
  13. 営利目的での郵便事業
  14. 有料道路

 

フリードマンが提案してから60年以上たっても、あまり進歩が無いのは残念です。

 

13)の郵便事業は、日本では民営化されましたが、「信書」に関してはばかげた規制がまだ残っておりヤマトは事実上市場から排除されました。

 

  1. の農産物に関する規制は、規制を行っているどのような国でも農業が発展せず、特に農民一人あたりに換算すれば、莫大な金額をつぎ込んだ日本の農業は壊滅的状態です。
  2. の輸入関税・輸出制限について、アダム・スミスは、<国家の利益のためではなく、特定の商工業者の利益のために行っているに過ぎない>と切り捨てています。

5)の最低賃金は、弱者を守るように見えて実のところ弱者を苦しめています。市場経済では、価格が上がれば需要は減ります。最低賃金によって雇用の総数は減り、職にあぶれた人はゼロ円の収入しか得られない失業者になります。また、最低賃金によって企業の競争力がゆがめられ、産業の発展が阻害されることも雇用にはマイナスです。

 

8)の年金制度(強制加入)は、個人の人生に国家が介入するやり方です。20歳を過ぎた大人に「老後の生活設計をどのようにするのか」国家が指導するというのは全体主義的です。アリのようにきちんとたくわえをしなかったキリギリスにどのように国が対応するのかは、別次元の話です。

 

9)の免許制度はかなり議論を呼ぶ争点だと思いますが、フリードマンは医師や弁護士の免許制度も不要であると断じています。当然、「免許制度が無ければ選択に困る」という話が出てきますが、「資格を持ったやぶ医者や悪徳(無能)弁護士がどれほど多いのか?」ということを考えるべきでしょう。例えば、金融機関や企業の評価は複数の民間の格付け機関(調査会社)が行い、全く問題がありません。むしろ企業の信用調査における民間の情報・分析の蓄積は驚くべき程です。「世間の評判」はかなり信頼がおけるものですし、ネット社会での「評判」の伝達スピードは迅速です。

 

そもそも、これらの免許が終身であることが問題です。日進月歩で進歩する現代社会において、30年前に試験に合格した人物の技量はあてになりません。自動車運転免許でさえ5年ごとに更新しなければならないのですから、これらの免許も5年あるいは10年ごとに更新手続きを義務付けるべきです。

 

同じことは大学を含む教員にも言えます。大学教員でもあったアダム・スミスは「競争原理が働かない大学の教員は腐敗する」と述べていますが、まさにそれが現実になっています。

教員も自由市場で(学生や学費を支払う親から)きちんと評価されるようにならなければ、教育の質の向上は見込めません。この点においてフリードマンは、生徒や親が公立・私立を問わず、好きな学校で学べる「バウチャー制度」という優れた提案をしています。

 

<リベラルとは何か?>

 

本書の冒頭でフリードマンは、リベラルという言葉が現在では全く反対の意味に使われていることを嘆いています。

 

そもそもリベラルという言葉は「自由を大事にする人々」をさしますから、本来個人の自由を最大限に尊重する「小さな政府」を信奉する人々を意味したはずです。ところが本来の意味でリベラルな人々は、現在は「保守派」と呼ばれ、「大きな政府(福祉国家)」を信奉したり共産主義(全体主義)のように個人の自由を奪う(例えばナチスは国民社会主義ドイツ労働者党で共産主義を信奉(共産党を弾圧したのは同じ方向を向くライバルであったから)し、毛沢東やスターリンはヒットラーをはるかに上回る人民を粛正で虐殺しています。もちろん、北朝鮮もその仲間です)人々が勝手に自分たちのことをリベラルと呼び、それが左翼勢力に支配されているマスコミによって広まり一般化しています。

 

要するに「リベラル」という言葉が「背のり」されたわけですが、それほど「自由」という言葉は現代社会において重みがあります。政治的な意味合いだけではなく「自由」と「民主主義」は、ピーター・ドラッカーが述べる「知識」が経済の中心である現代において、発展のための必須の条件なのです。

 

例えばガレー船(古代において2列に並んだ多くの漕ぎ手が全力で漕ぐことによってスピードを増した船)の漕ぎ手を考えてみましょう。彼らを一生懸命働かせるため、鎖でつないで鞭打てばいくらか効率が上がるかもしれません。むろん、「インセンティブ」が全くない彼らを働かせるための監督管のコストは馬鹿になりませんが、「牛や馬」と競合する労働であれば、このような手法もそれなりに役に立ちます。

 

ところが、現代の「バイオ研究所」において、研究員達を鎖でつないだうえで鞭打つことで、より良い研究の成果が出るでしょうか?むしろ逆なはずです。

 

米国の南北戦争は「奴隷解放」に関する倫理的な争いのように語られ「リンカーン」は、奴隷解放の英雄のように語られますが、そうではありません。農場労働で大量の奴隷(牛や馬の代わり)が必要であった南部に対して、工業化が進んだ北部では工場で奴隷を鞭打って働かせるよりも、解放奴隷にして「えさを与えてやる気にさせたほうが」より効率的だったのです。

 

少し皮肉な表現をすれば「社畜」であるサラリーマンと、コンビニ・オーナーなどの自営業者との関係に近いということです。少なくとも自分が「社畜」であると感じているサラリーマンは、必要最低限の仕事をして楽をすることしか考えません。それに対してコンビニ・オーナーは24時間息の抜けない過酷な環境であっても頑張ります。売り上げや利益が増えた場合の「一国一城の主」というインセンティブがあるからです。

 

「女工哀史」などという言葉もありますが、工場で鞭打って働かせるなどという話は聞いたことがありません。農作業であれば労働の質はそれほど問われませんが、工場の労働者がたくさんに別れた工程の中で「へま」をすれば、完成品全体に影響を与え大きな不利益を被ります。ですから、鞭打たれていやいや最小限のことを行う奴隷は役に立たず、「インセンティブ」を与えられて、積極的に仕事を行う「解放奴隷」が米国北部の工業地帯に必要不可欠であったのです。

 

この事実は、「10万年の世界経済史」<下>(グレゴリー・クラーク著)によって19世紀~20世紀にかけての世界の繊維産業でも検証されています。 当時英国は、繊維工場の機械や技術者を世界中に派遣する技術大国でしたが、他の国々(特にアジア、アフリカなど)の工員の賃金は英国をかなり下回っており、賃金において英国は競争上不利でした。ところが、全体的な英国の競争上の優位はなかなか崩れ無かったのです。著者はその理由を明確には述べていませんが、おおむね「工員の質」および「マネジメントの質」のかなりの差が英国と他の国々の間にあったのは間違いないようです。

 

したがって、リベラルを名乗りながら、実際には全体主義・独裁主義であるチャイナ、南北朝鮮、さらにはベトナムなどの共産主義国をはじめとするグループは、「知識」が最も重要な資源である現代において、永遠に先進国の仲間入りはできません。これらの国々を「発展途上国」あるいは「新興国」と呼ぶことがありますが、少なくとも「知識社会」における発展が望めないのですから「後進国」と呼ぶのが正しいということになります。

 

<合法的利権集団である労働組合について>

 

政府が行っているわけでは無いので14のリストには入っていませんが、労働組合も社会に害悪をもたらすものの一つです。

 

フリードマンが行った大まかな分析では、労働組合の力で労働人口の10~15%の賃金が10~15%引き上げられると、残り85%~90%の賃金水準は4%押し下げられるという推定に達しています。他の研究者による数字もほぼ同じ内容のようです。

 

商品の価格が上がれば需要は低下します。その結果その労働組合が牛耳る職場や同業などから弾き飛ばされた人々が職探しをします。供給が増えるので、それらの人々の賃金は当然下がります。結局、低賃金労働者を犠牲にして高給取りの組合員が潤います。

 

フリードマンの言葉を借りれば「労働組合は、雇用をゆがめてあらゆる労働者を犠牲にし、ひいては大勢の人々の利益を損なっただけではなく、弱い立場の労働者の雇用機会を減らし、労働階級の所得を一段と不公平にしてきた」のです。

 

<今こそ資本主義と自由について考えるべきとき>

 

60年前のフリードマンの鋭い指摘にも関わらず、現在に至るまで国家の機能は肥大化してきました。何か問題があれば「国が悪い」と、責任を押し付ける風潮がその流れを加速させたのは間違いありませんが、国の役割が増えれば増えるほど、個人の自由は制限されます。

 

日本をはじめとする先進資本主義国家が、共産圏のような全体主義・独裁国家になってしまわないよう、今こそ「国家」と「個人」の関係を見直すべき時ではないでしょうか?

(文責:大原浩)

 

 

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