ウクライナ紛争はロシアvs十字軍の最終決戦だ

ウクライナ紛争は、ソ連解体ののちもロシアをとことん追い詰めてきた欧米と、それに抵抗し反転攻勢に出たプーチンの最終戦争というべきものだ。両方とも欲張って非妥協的に過ぎる抗争を繰り返してきたが、ついに世界をゆるがす大戦争に発展してしまった。

今回の紛争については、ウクライナ東部の自治を約束したにもかかわらず実行しようとしないウクライナも悪いが、だからといって、軍事力を行使し、しかも、紛争地域にとどまらず、ウクライナ国家全体を掌握しようとしたプーチン大統領に一方的な非があるが、紛争の背景には、西ヨーロッパとロシアの800年にわたる生存をかけた歴史があることも理解しないと公正さを欠く。

私はご承知のように親西欧だから彼らの歴史観にシンパシーはあるが、「日本国民(日本人ではない)」としてはそれを鵜呑みにして外交を理解することは危険でもある。

そこで、今回はロシア国家と西欧に横たわる歴史観の断絶がどうしてもたらされたかを説明したい(できるだけ西欧とロシアのあいだで中立的に書く)。

ロシア国家のルーツは、その前身にまで遡れば、ノブゴロド(サンクトペテルブルクの南)でバイキングのルーリクが建国したとか(862年)、それがキエフに移ったのちウラディーミル一世がギリシャ正教の国にしたのもひとつの区切りだが(988年)、やがて分裂状態になり、しかも、モンゴルに征服された。

ウラディーミル一世の子孫たちもキプチャク汗国の武将として仕えたり友好関係を保ちつつ独立を認められたりしていたのだが、そのなかからアレクサンドル・ネフスキーという英雄が出て、バルト海沿岸から侵略してきた十字軍の一派であるドイツ騎士団を破り、その子孫がモスクワ大公国を建て、やがて、キプチャク汗国から自立したというのがロシアやそこから分かれたウクライナのルーツである。

そのあたりを王朝の変遷を軸にして説明してみるが、ロシアも意外に万世一系に近く、この建国者ルーリクからニコライ二世まで、血のつながりのないのは、17世紀初めに皇后の実家のロマノフ王朝に代わったときだけなのである。

キエフ大公国は、バイキングで傭兵隊長のようなものだったルーリクという人物が、バルト海から少し内陸に入った交易都市ノブゴロドのスラブ人たちに望まれて支配者となったことにルーツがある。ロシアの名のルーツであるルーシというのはバイキングたちが自分たちを呼んだ名前である。

彼らは当時の重要な交易路(このころ地中海貿易が衰えて代わりに栄えていた「琥珀の道」といわれる)を通ってキエフに本拠を移し、ルーリクの曾孫であるキエフ大公ウラディーミルがキリスト教に改宗し、東ローマ皇帝バシレイオス2世の妹アンナを娶ってキエフ大公国となった(988年)。だが、分割相続で求心力を失い、西からカトリックのドイツ騎士団(十字軍)と東からのモンゴルの攻撃に晒された。

キプチャク汗国(ジュチ・ウルス)がヴォルガ川の下流に建国され、現在のロシアの中心部は貢納を条件に間接支配となった。いわゆる「タタールの軛」である(1240年)。

 

十字軍の一派ドイツ騎士団とモンゴル・ロシア連合の戦い

ところが、このころ、西のほうからドイツ騎士団が進出してきた。ドイツ騎士団というのは、1190年の第3回十字軍でリューベックとブレーメンの商人がエルサレムに建てた病院が起源で、1199年、教皇の承認を受け宗教騎士団となった。

中東でも活躍したが、一方、ヨーロッパでも東方への進出を図った。原始宗教などの信者、あるいはギリシャ正教の信者と十字軍精神で戦おうとしたのである。

そのきっかけは、ポーランドの君主だったコンラト1世マゾヴィエツキがバルト海沿岸に植民していたプロイセン人(バルト海沿岸の小民族)を平定させるために、ドイツ騎士団に現在のラトビア東部にあたるクールラントを与えることを約束して協力させたことにある。

ドイツ騎士団は1241年にはポーランドと同盟してモンゴル軍とワールシュタットで戦ったが敗れ、さらに、1242年チュード湖の「氷上の戦い」(ネヴァ河畔の戦い)で騎士団連合軍はアレクサンドル・ネフスキー率いる軍に破れる。

アレクサンドル・ネフスキーは、ウラディーミル一世から数えて七代目で、ノヴゴロド公ヤロスラフ二世の子である。1240年にはネヴァ河畔の戦いで、スウェーデン軍を破った。しかし、ノブゴロドの貴族の親ドイツ派と対立して追放され、それを受けて、ドイツ騎士団が侵攻してきたので、ノブゴドロはアレクサンドルを呼び戻した。

アレクサンドルは親ドイツ派を粛清し、1242年の「氷上の決戦(チュド湖上の戦い)」でドイツ騎士団を破った。さらに、ロシア貴族たちはポーランド・リトアニア連合軍の侵略軍と戦い、後ろ盾を求めて、モンゴル人の建てたキプチャク汗国(ジョチ・ウルス)に臣従することになった。

アレクサンドル・ネフスキーは、キプチャク汗国の支援のもとで勢力を伸ばし、やがてウラディーミル大公を名乗った。このとき、キエフの大主教は、カトリックを押しつけるドイツ騎士団やポーランドなどより宗教の自由を認めていたモンゴルの支配のほうが好ましいとしてアレクサンドルを支持した。

アレクサンドルは、ギリシャ正教の聖人として列聖され、サンクトペテルブルク市内にはピョートル一世が創立した巨大なアレクサンドルネフスキー修道院がある。

また、1938年に公開されたセルゲイ・エイゼンシュテイン監督の映画「アレクサンドル・ネフスキー」は映画史上屈指の名作である。音楽はウクライナ人のセルゲイ・プロコイエフだ。映画の中ではドイツ人の聖職者の帽子にはナチスの鈎十字があしらわれている。

彼の死後、さらにその子のダニールが興したのがモスクワ公国である(14世紀に大公国に昇格)。

モスクワ大公国はキプチャク汗国への貢納を取りまとめる役回りを引き受けて発展したが、やがて、コンスタンティノープル陥落から間もないころになって、アレクサンドル・ネフスキーの七世代後のイワン3世がビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪を妃に迎え、「ツァーリにして専制君主」と称し、キプチャク汗国からの独立を宣言した(1480年)。

その孫でタタール人の母を持つイワン4世(雷帝)はキプチャク汗国が分裂してできたカザン汗国(1552年)、アストラハン汗国(56年)を併合しロシア帝国ができあがった。

こののち、強引な中央集権化に反発して混乱期が続き、カトリックのポーランドにモスクワを占領されたのち(この時代を舞台にしたのがムソルグスキーのオペラ「ボリス・ゴドノフ」である)、イワン4世(雷帝)の妃の甥であるロマノフ王朝の始祖ミハイルが擁立された。

ロシアの大国としての基礎を固めたピョートル大帝のあと、その妻や親族など女帝が即位したこともある。大帝の娘でドイツのホルシュタイン・ゴットルプ公妃になったアンナの息子がピョートル3世として即位したものの、あまりにも頼りなく、アンハルト=ツェルプスト侯というドイツの小領主出身だが、ピョートル3世の又従姉妹である皇后が聡明だというので擁立されたのがエカテリーナ2世である。

ヴォルテールの友人で典型的な啓蒙君主だった彼女が、ロシアを近代国家にしたが、私生活においては多くの愛人を持ち、とくに、ポチョムキンは政治的にも共同統治者に近い存在だった。そののちの皇帝は、革命時に殺されたニコライ2世に至るまで、ピョートル3世とエカテリーナの間の子であるパーベルの男系の子孫であり、イギリスなどの王室と縁組みを繰り返した。

このロシア国家は、ピョートル大帝がバルト海沿岸に進出し、エカテリーナ二世が、黒海沿岸までを併合して大国としての地位を確立したが、その過程で併合したドニエプル川流域の小国家群があった地域がウクライナであるが、その経緯は次回書きたい。

 

ドイツ騎士団から生まれたプロイセン王国

一方、ドイツ騎士団では、十字軍の最後の拠点アッコンが1291年陥落したのちには、関係者はドイツに帰国し、ドイツ騎士団の東方進出に加わった。ドイツ騎士団領は現在のポーランド北部から、バルト三国に及び、ローマ教会と神聖ローマ皇帝からも認められた。

ドイツ騎士団領は、バルト海での海上貿易を抑え、14世紀に全盛期となった。しかし、リトアニア=ポーランド王国が成立し、1410年にヤゲウォの指揮するリトアニア=ポーランド王国軍とタンネンベルクの戦いに敗れ、東進を阻まれた。

1454~66年のポーランド=リトアニア王国との戦争で敗れ、バルト海岸のグダニスク(ドイツ名ダンツィヒ)をとられ、東プロイセン(カリーニングラード周辺)だけになった。

16世紀にはドイツ騎士団長のホーエンツォレルン家がプロテスタントのルター派に改宗し、1525年にはポーランド王の宗主権の下で、プロイセン公国となった。このプロイセン公国が、1701年にブランデンブルク選帝侯国と合体したのが、ドイツ統一の母体になったといわれるプロイセン王国である。

また、ロシアはスウェーデンともバルト海沿岸での主導権を争った。17世紀のスウェーデンのグスタフ=アドルフは、三十年戦争に参画して、1648年のウェストファリア条約では大陸側に領土を拡張した。

しかしロシア(ロマノフ朝)のピョートル1世もバルト海方面に進出を狙っていたので、スウェーデンのカール12世は1700年に北方戦争(大北方戦争)となった。

カール12世は緒戦においてロシアに深く侵攻し、コサックの棟梁マゼッパをロシア側から離反させ、共同してロシアを攻略しようとし、1709年のポルタヴァの戦いで敗れた。オスマン帝国に亡命したカール12世は再起を期し、オスマン帝国とロシアの戦争に期待したが、1711年に講和が成立したため、不首尾に終わった。カール12世はさらにロシアへの反撃をしたが、1718年に戦死した。

こうしていったんは挫折した西欧のロシアへの進出は、ナポレオンが再び夢見たが失敗した。第1次世界大戦では、途中でロシア革命が起きたので、ロシア帝国は倒れ、リトアニア、エストニア、ラトビアというバルト三国が独立したが、第二次世界大戦でソ連に吸収された。

このような歴史を背負っているので、西欧とすればなんとか東へ進出したいという十字軍的な気分だし、ロシアのほうからすれば、モスクワやサンクトペテルブルクからの防衛線を少しでも遠くに引くというのが国家存立の条件だと考えているのである。

本レポートは、アゴラ(https://agora-web.jp/)の記事を転載いたしました。

★八幡 和郎

評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

滋賀県大津市出身。東京大学法学部を経て1975年通商産業省入省。入省後官費留学生としてフランス国立行政学院(ENA)留学。通産省大臣官房法令審査委員、通商政策局北西アジア課長、官房情報管理課長などを歴任し、1997年退官。2004年より徳島文理大学大学院教授。著書に『歴代総理の通信簿』(PHP文庫)『地方維新vs.土着権力 〈47都道府県〉政治地図』(文春新書)『吉田松陰名言集 思えば得るあり学べば為すあり』(宝島SUGOI文庫)など多数。

新刊:『日本の総理大臣大全 伊藤博文から岸田文雄まで101代で学ぶ近現代』(プレジデント社)

「365日でわかる世界史」、「365日でわかる日本史」(いずれも清淡社)


  

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