六四天安門事件30周年を前に文革の意義を考えてみる
六四天安門事件30周年を前に文革の意義を考えてみる
中国は昨年12月に改革開放40周年を迎えました。1978年の改革開放政策始動で経済発展の基盤作りを始めた同国は21世紀の現在、世界第二位の経済大国となるに至りました。この40年間に人民の生活水準は都市部を中心に各段に向上し、中国政府はその成果を高らかに自賛しています。
一方、中国政府が喧伝することはないでしょうが、今年6月は1989年の天安門事件から30周年に当たります。改革開放の開始から10年を経た1980年代後半、先富論を唱えて近代化を進めた中国では貧富の格差拡大と腐敗が進行し、当時東欧共産圏で広がっていた民主化の流れとも呼応して社会は不穏なムードを形成していました。民主化に理解を示した胡耀邦や趙紫陽ら改革派指導者は、鄧小平ら長老の意を受けた保守派と対立する構図に追い込まれ、学生らによる民主化運動はそうした構図によってさらにエスカレートすることになります。結局八大元老と言われた長老らの決定で戒厳令が布かれ、民主派によるデモの武力制圧が実行されました。
長老たちが改革派に厳しく当たり、学生運動に過剰な反応を示したのは、全員が文化大革命によるトラウマを抱えていたからだと思われます。文革開始時に政府や党の要職にあった彼らは失脚し毛沢東が動員した若者によって激しく糾弾されました。鄧小平は共産党総書記を解任されて労働者として地方に送られ、学生だったその息子は取り調べ中の事故で身体障碍者となります。紅衛兵に髪を掴まれて引き回される彭真の画像は世界に衝撃を与え、習近平現国家主席の父親である習仲勲は、長期の監禁生活を送りました。改革派と学生運動が連携して保守派に牙を剥いたときの恐怖を考えると、長老たちの過剰反応も不思議ではありません。
1966年5月から1976年10月まで10年余りにわたって中国を大混乱に陥れたプロレタリア文化大革命は、毛沢東が始めた政治闘争です。1949年に成立した中華人民共和国は、建国後もイデオロギー闘争に明け暮れて思うように経済成長を行うことができませんでした。また、1958年から61年にかけて毛が主導し全国で展開された大躍進政策の失敗では、天災の影響もあって餓死と出生減により1800~4600万人が犠牲になったとされます。
農村から社会主義革命を始めた中国共産党は、建国すると直ちに土地改革を断行し地主から取り上げた土地を一旦小作人に分配した後人民公社として共同所有にしました。しかし、士大夫層を形成するような教養を持ち何千年も中華社会の農村を運営してきた地主らのノウハウを切り捨て、代わりに各人が努力してもしなくても結果は同じという悪平等の共同所有を行った結果、毛の経済的失政に拍車をかけます。それに対して劉少奇や鄧小平ら実務派の台頭は、地主らと貧農の対立を煽り大多数の貧農の共産党への忠誠心を上げる毛の路線よりも、穏健な融和を促すものでもありました。毛沢東は実務派の排除を決断しますが、彼らを権力闘争で打倒しても、中国社会全体の修正主義的な流れは変わらないものと想像されました。
中華世界では反乱・革命や異民族の征服によって2~3百年ごとに王朝の交代を繰り返していますが、各地の統治機構はずっと継承されて中央と人民を繋いできました。歴代王朝は統一の過程で地方の統治機構を取り込み国家を安定させ、異民族の征服者たちは不変の中華社会に飲み込まれ同化してきたのです。士大夫が支える地方の社会機構こそ共産主義革命を経ても続く伝統であり、過去の戦乱を乗り越えて社会を維持してきた根幹です。革命を完遂するには、社会の隅々に残るこれら伝統を根こそぎ破壊する必要がありました。そのためには、良識や教養と呼ばれているものすら邪魔になります。文化大革命の初期に標的とされたのはまさに旧思想、旧文化、旧伝統、旧習慣と名指しされた社会の支柱そのものでした。実利主義によって経済の建て直しを行う組織や人々、伝統的な価値観や文化を継承して社会の安定を図る人々は、全て社会主義革命を後退させる敵であり打倒すべき階級と認識しなければなりません。そうした人々は「牛鬼蛇神」という庶民にわかりやすい悪役のイメージで糾弾され始めたのです。
文化大革命の初期に毛沢東の手足となって活躍し、牛鬼蛇神を打倒して回ったのは紅衛兵です。その多くは十代の学生で、知識や経験の乏しい彼らは古い価値観を破壊することにためらいがありません。紅衛兵はまず自分たちの学校で教師を攻撃しました。教師達は毛沢東の威光を笠に着た生徒に罵倒され暴力を振るわれても沈黙しました。次に紅衛兵たちは街に出て商店や工場などで反革命的な標的を次々と発見し攻撃し始めました。主な標的となったのは地主階層や富農、反革命分子、破壊分子及び右派など「黒五類」と呼ばれた人々の子孫です。反革命分子や破壊分子の認定は極めて恣意的なもので、劉少奇国家主席から村の役人までそれまで社会のリーダーだった人々が次々と修正主義者、走資派のレッテルを貼られて弾圧を受けています。
紅衛兵を指導扇動したのは、毛沢東の意を受けた林彪や江青ら四人組を中心とする文革派です。彼らは全国に革命委員会を組織し実務派の追い落としを進めました。しかし、文革派の行動はやがて派閥に分かれて競い合うようにエスカレートし、更にお互いに反革命のレッテルを貼って武闘を行うなど制御を失っていきます。暴走する紅衛兵を持て余した毛沢東らは1968年に下放運動を始め、都市部の学生を農村に送って混乱の鎮静化を図りました。その後文革の終了まで都市部と農村のギャップを埋めるという美名の下で学生の下放運動は続き、中国の教育システムは重大なダメージを受けています。また、学者や教育者、芸術家などが弾圧の標的とされたため、中国の学術文芸は大きく衰退することになります。
実務派の多くが既に失脚しても各地の革命委員会は派閥抗争を続け、中央でも毛沢東の後継者とされた林彪が反旗を翻しました。中国全土は政治闘争による疑心暗鬼と暴力に覆われ、文革は1976年に毛沢東が死亡して主導者だった四人組が逮捕されたことでようやく終結しました。10年にわたる動乱の間、経済活動は著しく停滞し、政治闘争が共産党と国家の統治機構を破壊しています。文革発動の1966年5月から10月の間だけでも、全国の地方政府の指導者40万人近くが「牛鬼蛇神」として拘束され、その後も多くの人々が弾圧され続けました。
歴史上の酸鼻を極める動乱にあっても多くの主導者の目的は財貨や権力でしたから、社会を根底から変えようという運動は中華社会では類を見ないものと言えるでしょう。文革によって中華伝統社会は徹底的に破壊されましたが、毛沢東の思惑通りに人民の共産党への忠誠心が高まることはなく、荒廃と虚脱感が中国を覆いました。結局、文革を生き抜いた鄧小平らによる改革開放が中国を豊かにしたものの、教養や伝統文化という中華社会の精髄を失い、拝金主義や権威主義などの形骸だけが継承されています。六四天安門事件以降思想や言論の統制を強め、また過去の易姓革命を涵養した地方の士大夫層も再生されていない中国で、共産党独裁という現王朝がどのような形で次代に変わるのかは明確に見通せない状況となっています。
<人間経済科学研究所:研究パートナー>
藤原 相禅 (ふじわら そうぜん)
個人投資家
広島大学文学部卒業
日本大学大学院で経済学修士
地方新聞記者、中国・東南アジア市場での先物トレーダーを経て、米国系経済通信社で商品市況を担当。子育てのため一家でニュージーランドに移住。台湾出身の妻の実家が営む健康食品メーカーの経営に参画。
商品相場歴30年余。2010年から原油相場ブログ「油を売る日々 (https://ameblo.jp/sozen22/)」を運営。
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