道徳感情論(第1部〜3部)

アダム・スミス日経BP社

翻訳ベースで700ページを超える大著なので、2回に分けてコメントを書きます。

ただ、大著ですが、非常に現代的なこなれた翻訳であるため、読むのに大きなストレスは感じませんでした。むしろスラスラ読めた印象です。

現在では、アダム・スミスの著書といえば「国富論」の方がはるかに有名ですが、彼が生きていた時代には本書の方が世の中に広まっていました。

近代経済学(古い経済学)においては、「合理的経済人」なるものが想定され、個人=個体の利益が最大になる最も効率的な行動をとるとされています。そして、アダム・スミスが述べる「(神の)見えざる」手が、「人間の利己心」の集合体であると解釈しています。たぶん一般にもそのように考えられているでしょう。

確かにアダム・スミスが、人間に利己心が存在することを認め自然なこととしているのは事実です。しかし彼が、「<自然>が与えた人間の根源的資質=本能」として考えているのは、(自分に何の利益ももたらさない)復讐心、(他人をうらやむだけの)嫉妬心、(自分に何ももたらさない無償の)他人への感謝など極めて多種多様なものです。

そもそも、スミスは28歳でグラスゴー大学の「道徳哲学」の教授としそのキャリアをスタートしました。決して経済(学)の専門家ではなく、むしろ「人間(性)の本質」に関して常に考えていた人物だったのです。

2002年に「行動経済学」の分野でノーベル賞を受賞したダニエル・カーネマンは「心理学者」ですが、経済の本質を理解するためには人間に関して深い洞察力を持つことが必要だという象徴的事例でしょう。

スミスは、ある意味「人間経済科学」の源流をつくったといえるかもしれません。「道徳感情情論」で述べられている内容は、人間心理を非常に鋭く観察し、かつ系統的に一つの体系として理路整然と述べられています。

また、極めて重要なのは、人間の心理と行動は<強い社会性>を帯びているということを断言している点です。

いわゆる「合理的経済人」は、自分(個人=個体)のことだけに基づいて損得を判断します。しかし、スミスが述べる「<自然>が生み出した人間」は、<他人の目>を重要な判断基準にします。

日本は強烈な「同調(強制)社会」で、少し息苦しい点もありますが、その「同調圧力」が極めて高い文化とモラル(道徳)の根源でもあります。

もちろん「同調」を求められるのは利己的であることではなく、むしろ利己心は押さえるべきであるという同調圧力が働きます。

同調を求められるのは「社会全体のためになる行為」であり、その同調によって<社会が構成員全体にとってより良いものになる>というわけです。

言ってみれば、スミスが主張するのは「(社会にとって)良き行いが強化され、悪しき行いが消滅する」自然淘汰的な仕組みなのです。この考え方はダーウィンの特殊(生物に関する)進化論に大きな影響を与えており、スミスの考え方を一般進化論と呼んでよいでしょう。

逆に誰かが社会(経済)を設計したと考えるのは創造説(神がこの世をつくった)を中心とした<中央集権的>な考えですが、その中央集権的な考えの極致である一神教(主にキリスト教)について、第3部の後半で触れています。

無神論者はいまでも西洋社会では差別の対象ですが、無実の人々を生きたまま火あぶりにしたり、身の毛もよだつ拷問にかけた中世キリスト教独裁(暗黒)時代の記憶が生々しい時代であったため、スミスの表現はかなり慎重です。

しかし、宗教的モラルは、人間が自然に持つ道徳感情を補強する効果を認めつつも、宗教的な狂信がたくさんの虐殺や戦争を引き起こしてきたことを冷徹に指摘しています。

経済も世の中も、単に利己心の集合体ではなく、他人への思いやりやその他の人間的感情も含めた神の見えざる手が導く「市場」によって自律的に運営されるのが最良だというのがスミスの主張するところです。

繰り返しますが、スミスが主張する「(神の)見えざる手」とは、単なる利己心の集合体ではありません。本書で述べられているような、良きも悪しきも含めた、(自然が与えた人間の)「道徳感情」によって自律的にコントロールされるものなのです。

<文責:大原浩>

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